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湊谷周平「留学体験記(準備編)」

 

2003.09.

 


 

0.はじめに

 

今回の留学は出発までに、多くの人々の助力によって実現された。留学のきっかけを与えてくださった高井先生、ゼミでお世話になっている橋本先生、留学の窓口として協力していただいた米山先生と、学部の先生方は貴重な時間を私のために割いてくれた。同期の富樫君は先に留学していたこともあり、準備段階ではさまざまなアドバイスをいただいた。また同期のゼミ生や合気道部の仲間、さらには学外の友達からも精神的な励ましを受けた。心から感謝している。また最大の理解者であり、最大の支援者である両親に改めてお礼を言いたい。

 

 

1.留学のきっかけ

 

 大学1年の後期に、高井先生の「経済の現在・過去・未来」という講義を受講したことが、留学のきっかけとなった。多人数で教授が一方的に行う授業ばかりとっていた私にとって、15人程度と少人数であり、学生の自主的に考えさせるスタイルのこの授業は、とても新鮮でおもしろかった。なにより「学部のゼミではお菓子をつまみながら授業を行う」ということで、出張から帰ってきた先生がフランス土産として買ってきたチーズを皆に配り、それを食べながら授業が行われたのだが、そのチーズは非常においしく、新鮮な授業に加え新鮮なチーズの味は今でも記憶に残っている。また日本ではあまり見かけることのできない高井先生のハイセンスなファッションは、授業の楽しみの一つであった。

 

ある日、授業の中で先生から留学についての説明があった。先生自身フランスの大学で留学を経験しており、先生の経験とあわせての話だったため、とても魅力的で、すぐに留学に関心を持ったのだが、同時にこうした留学の情報を得ることが困難であることも知った。先生によると北大の中には多くの留学の情報があるのだが、なかなか学生がアクセスできないとのこと。しかしこれはいいかえれば、留学を申し出る人が少ないというチャンスであり、情報を持つものが留学できるということも同時に知った。

 

さっそく授業後に相談をすると、北海道大学の経済学部は韓国の延世大学とスウェーデンのヨーテボリ大学に交換留学の協定があるという。どちらも魅力的な大学なのだが、私の父が以前に北欧の方へ旅行しており、とても満足した顔で帰国したことを思い出し、ヨーテボリ大学へ行きたいという気持ちが勝った。延世大学の窓口は高井先生であるが、ヨーテボリ大学の窓口は米山先生が担当されているということで、さっそく米山先生の電話番号を教えていただき、後日電話をかけてみることとする。

 

もちろん米山先生のことなど全く知らないため、高井先生から事前に米山先生の情報を教えてもらった。それによると米山先生は「バリバリの関西人」で、押しが強ければ「わかったでー」と快く相談にのってくれるらしい。意を決し夕方の時刻に電話をしたのだが留守だった。改めて夜の九時に電話をしたのだが、これがまずかった。時間帯が悪かったのか、先生は非常に機嫌を損なわれ、留学の話どころか「最近の学生はなっていない」というお説教を延々と30分受けた。思い切って留学の話を切り出したら、「教養の段階では知識が浅いからまだ早い。」と一蹴されてしまった。

 

 完全に米山先生のブラックリストに載ってしまったと思いこんでしまったため、留学はもう絶対できないなとこの段階で一度あきらめている。他の方法を探せば良かったのだろうが、当時はそこまで積極的ではなかったのだ。

 

 

 1.留学を忘れて

 

さて2年生に進級したわけだが、チャンスであるはずの留学は大学生活のプランから外れていた。この時の大学生活プランは部活中心で考え、部活で忙しくなる来年(注1)のために、2年生では受けられる授業を全て受けることとする。意外にも学部の授業は自分の性に合っていたのか、比較的マジメに出席することができ、経済史を除いた全ての授業で単位をとることができた。(注2)後期のゼミ選択は、経営学への関心の高まりから、前期に「会計学」の講義をしていた吉見先生のゼミに決定する。もちろん1年生の時にお世話になった高井先生のゼミにも見学に行ったのだが、先生の専門が西洋経済史ということで、経済史の苦い思い出が二の足を踏ませてしまった。同期の富樫君は西洋史が好きだということで高井ゼミを選択した。その後富樫君がヨーテボリ大学に留学することが決まったという話を聞いて、正直「うらやましい」と思った。その一方で僕には留学ではなく留年が決まることとなる。

 

 

2.20歳、厄年!

 

 厄年は本当にあるのだなと2002年は痛感した。通常は仕事上の、また体力のターニングポイントであるのが厄年らしいが、僕には20歳になってさっそく訪れた。確かに10代と20代の節目ではあるが、2回の災いで人生何があるかわからないと思った。

 

2−a.留年は突然に・・・

 

 2年の後期を終えて、新学期までの休みをくつろいでいたところ、知らない相手から電話がかかってきた。電話の相手は教務で、何か事務的な話かと思いつつ話を進めていくと、英語Wという教養の必修授業を落としたという内容のものである。あまり学校の単位のシステムを知らなかったため、最初は再履修かなぐらいにしか考えていなかったのだが、どうやら再履修はできず、留年になるという事実を聞いて愕然とした。急いで英語Wの教官に掛け合ってみたが、追試などの救済を一切とらないという当初の方針を貫き、さらには「今回落としたのは君だけではないから」と非常に理不尽な返答で、もう一度二年生を過ごすことが確定してしまった。

 

 もちろん学部の成績も悪くなかったし、努力も人より劣ることはなかったと自負している分、この手の留年はたちが悪く、「何で自分が・・・」と三日間ずっと悩み続けた。とりあえず前期はとれる授業が皆無だったので休学することとし、後期に復学し英語一単位をとって進級しようと思った。友達と函館に傷心旅行に行ったが、寂れた街にますます落ち込み、目の前で犬が車にひかれる場面に遭遇した時は、“突然のアクシデント”に遭った犬に同情した。しかしその後に温泉へ行き、湯につかっているうちに鬱な気分が晴れ、今後どうするかについてぼんやりと検討した。すると「そうだ、留年した分留学をして一年を取り戻そう!」という考えが生まれ、同時に高井先生の顔が頭をよぎった。この時1年前に挫折した交換留学を再度挑戦しようと決意したのである。しかし、交換留学は文字通り北海道大学と他大学の協定であるため、休学中は不可能と思い、大学に復学してから行こうと考えた。

 

2−b.盲腸も突然に・・・。

 

留年にとどまらず、タイトル通り盲腸にも突然おそわれた。現代の医学では病気のうちに入らないと言われるほど簡単な治療で治る盲腸だが、今回の場合は排泄物でできた石のせいで盲腸が腫れ上がってしまい、薬で症状を抑えることはできず、急遽入院して手術を受けた。剃毛され、尿道に管を通されたあげく、入院先が北大病院だったため、医学部生の格好の患者となった。(北大病院には盲腸ごときで入院する患者は稀とのこと。)

 

結局10日間入院したのだが、4人収容の部屋では皆、大病を患っていた。しかしその中で、末期ガンによって入院していた人と知り合う。彼は40才ぐらいで、筑波の方で大学の非常勤講師をしているらしく、4人収容の病室では最も若い僕が彼の話し相手だった。「何年生?」と聞かれ、しぶしぶ「2回目の2年生です・・・」と答え、留年に至った経緯を説明すると非常に痛快に英語の教師を批判してくれ、また「本来の教職員はこうあるべきだ」と熱く語ってくれたので、“こういう教師もいるのだな”ととても嬉しかった。また留学を計画している旨を伝えると、「見聞が広がるから是非行ってきなさい」と激励を受けた。健康のありがたみを痛いほど感じた瞬間である。

 

この時“盲腸もとった、留年も経験した”ともう何も失うものはなかったのだが、英語を身につける必要だけはあった。

 

 

3・英語は悪友

 

 もちろん留学するには最低限度の英語力が必要である。しかし、英語Wのクラスにひっかかっている自分の英語力は低すぎるため、到底留学などできない。むしろ進級することではじめて留学が可能になるため、もう一度英語を勉強し直す必要があった。そこで留年期間は英会話学校、留学生との交流、橋本先生の授業と様々なものにチャレンジした。

 

3−a.英会話学校での勉強

 

 僕の英語の能力を懸念した両親は、英会話学校に行くことを勧める。こうした両親の支援は今思っても本当にありがたいものである。さて英会話学校の決め方は、週刊ダイヤモンドの特別版で「英語のはじめかた」(名前は定かではない)という雑誌がでていたため、これを参考にした。値段やコースを考慮した上で、家から近い駅前のイーオンと大通りにあるジオスに決めた。大手の学校のシステムは似ていて、大きく3つのコースに別れる。それぞれ@日常会話などを扱っているテキストを使い、グループ内で話すことを重視して行われるコースA日常会話に文法の要素を加え、少人数で徹底して行われるコースB個別指導で短い時間に集中して教えてもらうコースである。ジオスでは@を、イーオンではAを選択し、1日1時間を週に四回通うこととする。

 

 クラスのレベルは、まず体験レッスンというものを受け、そこでの会話力によって決められるのだが、10段階のうちレベル4のクラスに配属することとなる。このクラスは英語のイロハはわかるが、話すことはほとんどできない・・・つまり初心者クラスである。もっとも、現役大学生といえども英会話力はほとんど必要とされない環境にあるため、英会話能力は初心者ということも「How are you?」と聞かれて「Im fine thank you!」としか答えられなかったときに痛感した。

 

 ジオスでは時間帯が12時からということもあり、同じクラスには主婦の方がほとんどで、彼女たちはどうやら英語のスキルアップよりは通うことが主な目的のようだった。それというのもこのコースの目的が、テキストを使って体系的に授業をおこうというよりは、自由にゲーム感覚で英語を話して身につけるスタイルだったため当然なのだろう。カナディアンの25歳の先生は、絵に描いたような金髪美人だったため、毎回授業に行くことは楽しみであったが、ある日彼女が週末にいった旅行の写真の中に、ボーイフレンドと楽しそうに過ごしている姿が・・・。その後は授業の授業は景色のように過ぎていった。最終的に彼女と話そうとがんばったおかげで、語学力がついたというよりはコミュニケーション力がついた気がする。

 

 一方イーオンの授業は最初のうちはとても退屈であった。テキストがあまりに簡単すぎ、文法は中学生レベル。予習する必要はなく、授業中はひたすら覚えている文法の復習をしているような感じだった。さらに初めのうちは担任が日本人だったこともあり、英語への嫌悪感は増すばかりだった。しかし担任がアメリカ人の先生に代わってからこの状況は一変する。ある日彼と何気ない会話をしているうち、彼が合気道(武道)をするために日本に来たということを知った。自分も合気道をやっていることを伝えると、彼の目がとたんに輝きだし、一緒に稽古をしないかと誘ってきたのである。どうやら仕事の都合で夕方の時間帯に稽古ができず、ストレスがたまっていたらしい。朝練につきあってほしいという申し出に渋々OKし、毎週木曜日の朝に彼と一緒に稽古をした。思いがけないことに、この稽古は合気道であると同時に、テキスト無しの実践英会話の稽古でもあった。もちろん会話内容は合気道に限定されるのだが、互いに技を議論したり、お互いの武道に対する思いなどを話し合ったりする際には、かなりの英語能力を必要とした。おかげで、最後まで授業はつまらない内容のままだったが、彼と親友になることができ、さらに合気道英語を習得することができた。

 

 

3−b.留学生と留学帰りの橋本先生

 

 後期になってから、復学したため朝練をやめることとなる。しかし10月頃から留学生が合気道を習いたいということで、指導役を受け持つこととなったのは幸運だった。ドミニカ共和国出身の彼女は母国語がスペイン語であるにも関わらず、英語がネイティブレベルに流暢だったため、合気道を英語で指導する傍ら、彼女から日常英会話のイロハを学ぶことができたである。また彼女は日本の漫画・アニメ文化に惚れ込んでいたため、二人で宮崎駿の作品に関して盛り上がることができたときは、非常に英語が身に付いているという自信につながった。ただし、この陳腐な自信は橋本先生の英語のクラスを受けて潰える・・・。

 

後期の復学の際に、必修の英語の授業以外に、「経済経営書講読」及び「外国書講読」の学部授業を受けることができた。「外国書講読」の授業は、現在ゼミの担任である橋本努先生が担当していた。授業内容はアメリカテロに関する英語の文献を読むということで、当時話題の内容ということもあって授業を履修したが、この文献が非常に難しく、また課題の量も半端ではなかった。そのため後期は必修の英語の授業と併せてアルファベット地獄を味わった。結局、最終課題の提出が遅れて不可になったが、最後の授業の時に課題として出された文献はいつもよりワンランク下の文献で、非常に楽に読むことができ、英語の必修クラスもパス(注4)でき、さらには他の外人の友達までできたので、今では履修して良かったとつくづく思っている。

 

こうして思い返すと、英語の授業で苦しめられ、しかし一方で外人の友達ができて、英語を“やっていて良かった”という思いがする。故に英語は僕にとって悪友のような存在となっていることは否めない。

 

 

4.手続き一覧

 

 僕の手続きはトラブル続きだった。

 

10月頃、まず一度高井先生に留学をしたいとの旨をメールで相談してみた。すると「春期留学には学校の締め切りが過ぎているから、学校に頼ることはできず、自分で交渉しなくてはいけない」と教えていただき、韓国の延世大学にメールで申し込みの確認をしてみることとする。正直、この時は「留学ができればどこでも良い」と思っていたため、倍率が高そうなヨーテボリ大学をあきらめ、倍率の低そうな延世大学にしようとしていた。

 

 返答は結局「無理」だというので、秋期留学へ即座に変更した。そのことを高井先生に報告したところ、「申し込みは2月頃だからそれまでは余裕がある」という返事をいただき、それまで部活と必修の英語に打ち込もうと決意する。

 

 しかし、1月の当初に高井先生のゼミの掲示板を見ると「留学希望届けの締め切りは12月25日」だという。急いで今日の日付を思い出してみると1月15日・・・。どうやら、学校への“留学希望届け→留学申し込み”という手順であり、明らかに手順の日時を勘違いしていた。急いで高井先生にSOSメールを送ったところ、奇跡的にも1時間ほどして返信が届き「ヨーテボリ大学への留学希望者が3人中2人で、定員が1人欠けている。もしかしたら事務にまだ掛け合えるかもしれない。」との救いの糸を垂らしてもらった。急いで事務に掛け合ったところ、「もうすでに選考が始まっているのですけど・・・、ふぅ、仕方ありません。これに必要事項を記入して提出してください。」と期限切れにもかかわらず申し込むことができた!非常に運が良かったとしかいいようがない。(高井先生ありがとうございます。)

 

この書類は非常に簡素なもので、「どうして留学したいか」「どれくらい留学したいか」などといった、希望調査書のようなものだった。ゼミ担任の推薦状も必要だったため、橋本先生にお願いして書いてもらった。(注3)英語に関する証明書が一切必要なかったのは、以前から高井先生に聞いていたのだが、改めて驚かされた。

 

 それから数週間して、「希望者の中で選ばれたから、書類を取りに来てほしい。」との知らせを事務から受け、ついに夢が実現したという気持ちの高ぶりは今でも覚えている。このことを両親に報告した後、直ちに高井先生に報告した。その後の高井先生の話によると、一人が辞退し、実質的な倍率は2倍だったということ。北海道大学における留学の倍率は、やはり低いというということを思い知った。

 

 

5.授業と準備

 

 同期のメンバーに一年遅れで3年に進級したが、また留年しないためにも単位を稼いでおく必要があった。学部の単位はこの時点で34単位あり、卒業まで残り36単位なので比較的余裕はあるものの、留学のことを考慮して、出発前つまり3年の前期でほとんど稼いでおく必要があった。そのため受けられる授業は全部履修して、3年の前期の1−3限目までは全部埋まっていた。

 

しかし金曜日の4&5限に控えている橋本ゼミの予習のために、木曜日及び金曜日の授業はほとんど休みがちになってしまった。ゼミの課題テキストである「貨幣の哲学」はやたらと難しく、さらに課題として新聞スクラップは英字新聞を義務づけられていたため非常に時間を要した。英単語の課題は、留年をちらつかせ、これは留年経験者には針の筵に突き落とされる思いだった。それ故、夢の中で橋本先生が“笑うセールスマン”のごとく現れ、指を回しながら課題を出す姿で目覚めたときは、泣きそうになった。これを書いている現在は、その課題のおかげで助かっているため感謝しているのだが、当時は金曜日は13日ではなくてもスリリングな曜日だった。

 

さて授業と平行して留学の準備を進める必要があった。しかし留学への焦りから精神をすり減らし、さらには周りに迷惑をかけてしまったことは、反省すべきことである。それというのも、先にスウェーデンに行っている友人の富樫君から「事務とは手続き上よくもめた」と聞いていたので、3月くらいから留学の情報を催促していたが、書類が来ないことには学部の事務もどうしようもなく、それ故留学コーディネーターである「米山先生に確認」することとなる。以前に米山先生に対しての無礼で苦い思いをしているため、連絡するか否かをずっと迷い、胃が痛い日々が続いた。しかし意を決し、さらに前回の反省を生かし、メールでコンタクトを図った。するととても丁寧な文面で返事が来たため、結局自分の取り越し苦労であったし、先生や事務の方々の仕事の邪魔をしてしまう結果となってしまった。書類が届いたのは5月中旬であった。

 

やっと来た書類に心をときめかせ、申し込みをするのだが、ハイテクな現代ではインターネットでほぼ全て(もちろん用紙に記載する必要もある。)申し込むことができるようで、ヨーテボリ大学から渡されたパスを使って大学のHPにアクセスした。その場で必要事項に記入できれば良かったのだが、緊急連絡先などは親戚に頼む必要があるため、とりあえず必要項目などを紙にメモし、後日アクセスすると記入期限は終了しましたとの表示が!「おいおい、待ってくれ。確か締め切りは5月30日だろ?今日は5月16日・・・、時差って最高1日のはずなのに」と自問自答したが、その場ですぐヨーテボリ大学へ確認のメールを送ると単なるシステムトラブルだった。

 

ほっと一息ついてから、今度は寮の予約をした。寮は2種類予約できるようで、1つは広いがインターネットは使えず料金高め、もう1つは狭いがインターネット使い放題で料金安めというものだった。後者の方が、留学生が多いという情報があったので、そちらに決める。ただしこの料金はおよそ日本の大学の寮費よりはずっと高く、一月およそ4万円(もちろん食費抜き)!スウェーデンの物価の高さを日本にいながら痛感した。予約した後では、料金を前払いしなくてはならないのだが、これは北海道銀行にお世話になった。持っていた料金支払いマニュアルを、行員さんと話し合いながら無事に送金・・・できれば良かったのだが、ここでまたトラブルが起こってしまう。マニュアルには2種類の銀行の口座が書かれており、どちらでも可能とあったのだが、何を勘違いしたのかA銀行の名前や所在地を書いて、B社の口座番号を書くといったことをしてしまった。記入から30分後に運良く発見し、急いで銀行に戻ってみると、行員さんが書類をそろえて待っていた。これは行員さんがもしものトラブルのために、前もってマニュアルのコピーを本店へFAXしていたため、すぐにミスを見つけたらしい。危機一髪の瞬間だった。(ちなみに送金手数料は6000円かかった・・・。)

 

 またビザの手続きもしなくてはならなかったのだが、これは6月の中旬から始めた。スウェーデンビザの取得のためには、まず東京の大使館へ申請用紙取得願いを出す必要があった。下旬に書類が届いたのだが、必要になるものは大学への入学許可書や、パスポートなどと併せて、銀行の口座残高証明書が必要になる。急いで稚内に住んでいる両親に証明書を送ってもらい、7月上旬に大使館へ送った。しかし、銀行の残高証明書が日本語だということで書類を送り返されてしまい、英語のものを作り直しているうちに送付は7月下旬になってしまった。実はこれが原因でスウェーデンの出発が1週間遅れてしまうことになる。

 

 

6.延期、延期、やっと到着

 

 正直自分には運がないと思っていますが、ここまで運がなかったとは・・・。ただしトラブルの連続は、経験を生かして新たなトラブルを解決できたので、結果オーライなのでしょうか?

 

6−a.ビザが来ない!

 

 8月25日が交換留学生の到着予定日であり、この日に到着すると学生を大学の職員が迎えに来てくれるというシステムになっている。また、この日に到着すると授業が開始する9月1日までいろいろなイベントに参加することができ、友達がつくれるようになっている。飛行機の予約も8月の第1週目に北大生協で済ませていたので、もう準備は万全だった。しかし第2週目になってもいっこうにビザが来ない・・・。おかしいなと思い、大使館に電話をすると、「書類はスウェーデンに行くのでこちらでは全くわかりません」との返答。「おいおい、他の国ならもっと早いぞ。」と思い、「出国は8月25日で急がなくてはなりません。」と少々抵抗してみた。すると受付の人から職員へ電話が代わった“チャンス”とばかりに事情を説明すると、相手を寄せ付けないほど冷たい口調の職員は「最低2週間から10週間はかかります。もっと早くに準備しなさい。」の一言で電話をガチャンと切ってしまった。これにはさすがに茫然とし、泣きそうになった。もちろんビザの申請にはパスポートも同封しているため、出国すら許されない状況である。まるで牢屋に冤罪で投獄されている気分を味わった。

 

 とりあえず第3週目の出国予定日ギリギリまで待つことにしたが、結局来なかったため、生協に掛け合って航空券をキャンセルすることにした(注5)。この時引っ越しの準備をすでに済ませていたため、家にはテレビも冷蔵庫なく、ノートパソコン1台と寝具一式という状態。ヒマをもてあましていたので毎日学校の図書館でレーザーディスクを見る日々が続いた(注6)。

 

 到着期限日の26日から過ぎること2日目、8月28日にやっとビザが来た。「愛しのパスポートよ、もう離さないぞ!」と固く決意した後で、急いで生協に駆け込み、飛行機を再び予約した。しかし一番早くても9月3日の便ということで授業開始日の9月1日には間に合わなくなった。ちなみに選んだ航空会社は、前回同様安さからタイ航空である。さらに、他の航空会社を利用すると、スウェーデンに到着するまでに必ずどこかの国で一泊しなくてはならないのだが、タイ航空は真夜中の便なので飛行機の中で一泊できるというメリットもあった。

 

6−b.飛行機が飛び立たない!

 

 待ちに待った9月3日。心をときめかせ、新千歳空港から関西国際空港へ。ちなみに東京の成田ではなく関西国際空港なのは、スウェーデンへ行く片道スケジュールが東京にないからである。夜7時に出発なのに、3時に到着してしまったため、適当に食事をとり、出国審査を済ませ、免税店を散策し搭乗までの時間をつぶした。

 

 機内に搭乗すると、インド系のエキゾチックなスチュワーデスさんがタイ語で恐らく「こんばんは」といっていた。かなりの美人だったため、心ときめかせ「Hello」などと言ってみる。「この航空会社を選んで正解だったなぁ」などと思いながら座席に着いた。するとアジア系の男が一人、「Excuse me 〜」というので、道をあけてくれと言っているのかと思ったら、どうやら座った場所はどうやら彼の席ということ。急いでチケットを確認したら一つ前の座席だった。スチュワーデスさんに気をとられていた自分に反省しつつも、初めての英会話が何とかうまくいったことに大喜びした。

 

 夜10時半にバンコクに到着し、ストックホルムで乗り換えるための便を探す。しかしチケットにゲートが書かれていないので、受付に聞きにいくと「システムトラブルのために今日は飛び立たず、出発は明日になります。ごめんなさい。ホテルを用意しましたので上の階の係員に従ってホテルに行って下さい。」と言われた。これには我が耳を疑った。「ビザで延期、飛行機トラブルでさらに延期か!」とおもい、フライトインフォメーションを凝視したが、1時20分発のTG960便はどこにも見あたらなかった。あきらめて係員を探しだし、航空券を見せると、裏口へ裏口へと誘導されていった。「どこに連れて行かれるのだろう?」と思いつつもついて行くと、カウンターみたいなところでタイ航空の服を着た人が「パスポートを下さい。」と英語で言ってきた。訳もわからず「どうぞ」と渡し、一枚のカードをもらった。「このまままっすぐ行くとホテルだからね。」といわれ、その指示通り行くと本当にホテルがあった。しかもゴージャスで、食事も部屋もタダということ。部屋に入って、ひとまず落ち着いてから今までのことを考えてみた。「何でこんなに運がないのか?」、「また学校の方に遅れると報告しなくては・・・」と。しかしすぐに、あれだけ“離さない”と誓ったパスポートをよもや初日で手放した不安がこみ上げ、“もしあの人が偽の係員だったら”と考えると気が狂いそうになった。そこでもらったカードを念入りに調べると、「一時的にお預かりします」とのこと。どうやらこのホテルが空港外に設置されているため、入国審査を省くために預かるらしい。ホット胸をなで下ろし、ベッドにつくこと夜の1時。海外旅行初日はこうして波乱のうちに終わった。

 

 そして翌日。朝5時半にモーニングコールでたたき起こされて、ビュッフェスタイルの朝食を済ませた後、愛しのパスポートを受け取り、8時半の出発まで空港のロビーで待つことにした。すると6,7才くらいの男の子と女の子が騒いでいるのが目にとまった。どうやらエネルギーをもてあましているらしく、いきなりサッカーを始めた。予想通り何度か子供たちは通行人にぶつかっていたのだが、近くにいた親は我関せずといった様子。子供のしつけができない親に、将来への不安を抱えつつ飛行機へ搭乗。

 

 スウェーデンまでの飛行機は非常に長く退屈であった。およそ10時間以上乗っているのだから、それも仕方ないのだが、時間をつぶすことに必死だった。機内では映画などもやっていたのだが、およそ日本の映画館では上映されないくらいマイナーなもので、専ら音楽を聴きながらTIMES紙を読んでいた。特にビールやワインは飲み放題というのも良かった。ビールはタイビールを一缶だけ飲んだが、アルコール6%と結構強く、すぐに眠りに陥ることができた。隣の席のおじさんは毎度同じ注文で、ビールは「カールスバーグ」、お酒は「ウィスキーのコーラ割り」を頼んでいた。こだわりなのでしょう。

 

昼の2時頃になって、シートベルトサインが鳴った。“いよいよスウェーデンでの初留学体験が始まるゾ”と椅子に体を縛りつけ、はやる気持ちを抑えつけた。

 

(続きは留学体験記本編で書きます。)

 

 

(注1)・・・合気道部では3年目が幹部として部を運営し、4年目以上はOB扱いです。

(注2)・・・経済史は授業にはほぼ全て出ていたのだが、しかしテスト前に貸していたノートを友達から返してもらうのを忘れてしまい、あえなく撃沈してしまった。

(注3)・・・留学を考えていたために、会計学の吉見先生のゼミを辞退した。高井先生のところを考えていたのだが、富樫君が「おまえの面倒はもう見たくない」といったので、友達の世話にならず且つ好きなテーマで勉強できるゼミとして橋本先生を選んだ。

(注4)・・・英語必修クラス担当の井上和子先生は、英語の勉強のアドバイスをしていただいたおかげで、現在も助けられています。この文ではあまりふれなかったので、この場をかりてお礼を申し上げます。

(注5)・・・キャンセル料は生協で申し込んだため、1週間から〜4日前までが2万円、3日前〜前日までが3万円、当日が80%。ちなみに航空券は片道12万3千円でした。他社が16,7万円していたことに比べると割安か?

(注6)・・・出発までにもちろん準備もしていました。持ってきて良かったものは、変圧器・プラグ変換器・海外で使える携帯電話(いずれも富樫君に借りたもの)、大きなポシェット(橋本先生が身につけている理由がわかりました。)、友達作りのためのハイチュウ(外人さんはみんな好き?)、それとノートパソコンです。